学院章・学院歌
信愛の教えを象徴する学院章と学校歌を制定し、創立者の心を受け継いでいます。
学院章
信愛の校名を象徴する学院章はギリシャ十字架形を基にしたもので、外形の十字架は「信仰」を、四隅の輝きは「神の栄光」「無限の発展」を表しています。中央の十字架は「イエスキリストの無限の愛」を示すものです。
創立者は、学院に集う園児、児童、生徒、学生たちの限りない成長と発展を願い、教育を通して「神の存在」を知らせ、「神を信じ、希望し、愛すること」を教え、広く社会に神の愛が伝えられていくことを期待しています。
学院歌
建学の精神、教育理念、学院の歴史を基調歌詞とする不変の魂を込めた学院歌です。卒業生の集い、入学式、卒業式、始業・終業の集いで、園児、児童、生徒、学生、教職員が心をひとつにして誇りを持って歌っています。
大阪信愛学院 学院歌
学院歌 MP3(1.3MB)
作詞:小林 恒市 改定:角田 チエ子 作曲:市川 都志春
1. かぐわしき 神のみ恵み いや深く
生駒高嶺を 目も遥に
栄ゆる信愛 歴史は常世2. 咲く花の 優愛しき姉妹 朝夕な
思いたけびて 学徳を
ともに顕し 献げまつらん
※2022年 共学化に伴い2番の歌詞⼀部を変更
⼤阪信愛学院 学院歌
作詞:⼩林 恒市 改定:⾓⽥ チエ⼦ 作曲:市川 都志春
1. かぐわしき 神のみ恵み いや深く
生駒高嶺を 目も遥に
栄ゆる信愛 歴史は常世2. 果てしなく 広がる未来へ 朝⼣な
思いたけびて 学徳を
ともに顕し 献げまつらん
大阪信愛学院短期大学紀要第46号(2012)より掲載
大阪信愛学院「学院歌」の考察
―制定と変遷・作曲学の角度からの分析―
牛尾 康枝*1 小西 欣一*2
*1 大阪信愛学院中学校音楽教諭 *2 大阪信愛学院短期大学名誉教授
要旨
学院歌(校歌)について、作詞・作曲に関して、今まで余り論議されたことがない。本来、論議する様な事柄ではないからであろう。この度、数多ある校歌の中から、大阪信愛女学院の学院歌に限定して、学院歌の歴史的な流れと、作曲学の面からの考察を試みた。学院関係者が、これによって「学院歌」に対して、より深い理解を持って頂けると思うからである。本学「学院歌」の歌詞・曲想には、建学の精神・教育理念、ミッションスクールとしての使命が示されている。信と愛の心を生きる学院生が、先人たちに習い、神への賛美として、声高らかに「学院歌」を歌い続けることを願っている。
キーワード:建学の精神 歴史 信・愛の心 ホ長調
第一部 制定と変遷
1. はじめに
建学の精神・建学の理念、学院の歴史を基調歌詞とする「学院歌」は、時代と共に変化してきたが何時の時にあっても学院の魂を歌い上げていることには変わりない。現在にいたるまで、卒業生の集い・入学式・卒業式をはじめ始業・終業の集いに園児、児童、生徒、学生、教職員が心一つに誇りを持って歌っている。このたび、学院の魂を歌う「学院歌」の制定と変遷についてのまとめと、作曲学の角度からの考察をおこなった。第一部を牛尾康枝が第二部を小西欣一が担当した。
2. 学院歌の制定と変遷
フランスを発祥の地として誕生した大阪信愛女学院。学院の歴史のなかで、はじめて校歌が歌われたのは、1914年(大正3年)のことであった。そこで歌われたのは明治天皇の御製「廬間舟」であった。
とる棹の(明治天皇御製)
とる棹のこころ長くもこぎよせむ
廬間の小舟さはりありとも
当時の信愛高等女学校教頭木村竹次郎は、この御製の御心のとおり将来如何なる障害に遭遇したとしても、勇往邁進してよしあし繁き処を、倦まずあせらず押し分けて進むようにと卒業生や在校生を常に励ましていた。そして、よい葦分舟となって、世のため、人のために尽くす人材の育成に努力を向けられた。このことについて当時の教職員が、教頭から直接聞いたことによると、御製に歌われている風景は本校を取り巻く環境に合致し、その御心はそのまま生徒達の進むべき目標を示されていることに、改めて共感し感動を新たにした。そこで、この御製を校訓と仰いで唱和するようになり、やがて時の音楽教諭シスター セン・ジュスタン(仏人)が作曲し、校歌「とるさおの」(明治天皇の御製「廬間舟」)として歌った。(信愛百年史参照)
1993年、「幼きイエズス修道会 信愛教育」という小冊子が発行された。これは、信愛生の卒業期にあって欲しい姿を描き出したものである。いみじくもこの小冊子に示されている学生・生徒のあるべき姿と、明治天皇の御製「廬間舟」の意味するところが一致しているのに、今更のごとく驚きを覚える。このことを熟視し、信愛の校歌の代替として歌い継がれていたと思われる。しかし、あくまでも借り物であり、大阪信愛の校歌として末永く歌い続けていくわけには行かない。こうして大阪信愛としての校歌制定が望まれるようになったのである。
1943年(昭和18年)待ち望んでいた新しい校歌が誕生した。作詞 信愛高等女学校国語教諭 小林恒市、作曲 市川都志春によって、明治天皇の御製「廬間舟」に代わって三節からなる校歌が発表された。
1. 皇の高知りましき 難波津江
駒高嶺を 目も遥に
栄ゆる信愛 舊史は常世2. 咲く花の 優愛しき姉妹 朝夕な
思いたけびて 学徳を
ともに顕し 献身奉らん3. 日の本の 世紀の空に
燦然と 永遠に輝く 信愛の
大和少女を世界に示す
その後、東京より声楽家の来校を仰ぎ、公式に校歌が披露された。歌詞に相応しい曲想と素晴らしい演奏に一同万雷の拍手をもって校歌の完成を喜び、感謝したのである。全校生徒が歌ったのは、1943年(昭和18年)4月3日、新学期の始まりであり、その後、多少の変遷を見ながら、今日まで歌い継がれてきた。
歌詞の意味することは、本学高等学校 第9代校長シスター松永キクの解釈によると、「天皇陛下が治めておられる大阪の地、生駒山を遥かに眺めることのできる地にあって、素晴らしい信愛の歴史は永く栄えて行く。咲く花のように美しい生徒たちは、優しい姉妹のように思いやりをもって学問や人格を磨き、社会に献身する。こうして信愛生は大和乙女の輝かしい働きをもって広く世界に日本女性を永遠に示す。」当時、このように力強い頼もしい女性が学院から巣立っていったことが伺える。
1951年(昭和26年)3月13日、学校法人大阪信愛女学院と組織が変更され、それに伴い校歌は「学院歌」と呼ばれるようになった。
1957年(昭和32年)10月4日、信愛高等学校創立50周年記念式典の挙行にあたって歌詞を整えることになり、戦前・戦中の精神を盛り上げたものから、平和を求める今の世に相応しい内容に改め、「一つの心・一つの魂」のもとに建学の理念・建学の精神がさらに発展することを願って、第5代校長シスター山田通子が、当時の高等学校国語教諭 角田チエ子に校歌の歌詞改定を依頼した。それが現在歌われている「学院歌」である。
1. かぐわしき 神のみ恵み いや深く
生駒高嶺を 目も遥に
栄ゆる信愛 歴史は常世2. 咲く花の 優愛しき姉妹 朝夕な
思いたけびて 学徳を
ともに顕し 献げまつらん
「生駒の麗峰を遥かに臨むこの世に神の恵みは芳しいまでに注がれ、いよいよ恩寵豊かに信愛の歴史は永遠に栄えて行くことを祈りながら励む。学徳共に調和のとれた生徒、咲く花のように美しく姉妹のような親しみをもって関わり合い人格を磨いて、世のために貢献できるよう励み合って行く。」
学院の魂を歌う「学院歌」。私たちの願い、祈りが込められた歌詞を、幼稚園児から短期大学の学生にいたるまでが歌い、卒業後も歌い続ける心に、「信じ、愛し合う信愛教育」の余韻が流れ続けるであろうと確信している。
作曲者 市川都志春(いちかわ としはる1912~1998)は、日本の作曲家・音楽教育者である。戦後は、音楽教育に力を注ぎ多くの音楽教科書の著述、編集出版に尽力した。現在、信愛の小学生・中学生が使用している教科書は、東京豊島区にある教育芸術社発行:市川都志春著者、監修のものである。(現在 教育芸術社は、子息 市川昶史(2010没)に、さらに昶史の令嬢 市川かおりに受け継がれている)
当時、信愛高等女学校に国語教諭として近藤秀が在職していた。その子息の義兄弟が作曲家 市川都志春であったことから学院歌の作曲が依頼できたのであろう。作曲に関して、ミッションスクールにふさわしい、聖歌調にとの学院の望みに応えるため、しばらく人里離れた場所に留まり、信愛の建学の理念・建学の精神、学院の歴史を基調歌詞とする「学院歌」に相応しい曲想を練った。
その結果、学院の望みに見事に応えた崇高、清楚であり学院の魂を照らす「学院歌」として完成されたのである。今は亡き市川都志春氏に改めて感謝の意を表したい。
3. 終わりに
これからも、“信と愛の心を生きる”大阪信愛女学院の教職員をはじめ、卒業生、在学する学生、生徒、児童、園児達が、この素晴らしい「学院歌」をより身近なものとして歌い、神への賛美、互いの祈りとして、これまで以上に大切に歌われるようになればと願っている。
第二部 作曲学の角度からの分析
1. はじめに
「学院歌」については、シスター牛尾がまとめられた。信愛の人として、またシスターという宗教家の立場から、これほどの適任者は他に見当たらない。加えて音楽の専門家であり、これについてもお書きになれば良いのにと思ったが、私のためにスペースをあけて下さったので感謝し、作曲学の角度から考察を述べてみる事にする。
2. 学院歌に用いられたホ長調という調性
歌の音域が11度である事から、ニ長調、変ホ長調、ホ長調、へ長調が、全員で歌う時の範囲として考えられる。この中で二長調は女声で歌うには少し重く、ヘ長調は最高音の二点へ音の発声がやや困難な生徒を思い除外すると変ホ長調とホ長調が残る。各調には固有の気分がある事は、ギリシャ時代から言われており、へンデルなどは特にこれにこだわっていた。12平均律になってこのような美学が薄れたにも拘わらず、ベートーヴェンをはじめ多くの作曲家が調の決定に影響を受けている。
さて、ここで“変ホ”ではなく“ホ”が選ばれた事は、幹音であり清清しい広がりと、作曲者が日本旋法に造詣が深かった事も関係しているのではなかろうか。“ホ”は、日本の音楽で平調(ひょうじょう)と呼ばれる音(高さ)で、雅楽では重要な音であり、また箏や三味線の調弦の中心音である。
偶然かもしれないが「日本名歌110曲集2」に、数ある市川作品から選ばれた代表曲「今この庭に」(三好達治 詩)も学院歌とおなじ#4つが用いられエオリアン旋法風な音楽である。(ショパンのフラットへの偏愛は有名であるが、それほどでなくても作曲家には調へのこだわりを持つ人が少なくない)
3. 学院歌に使われている二つの短三和音
長調で構成されているので主役は明るい長三和音である。その長三和音群の中に二箇所短三和音が使われている。歌詞で示すならば「○いや深く」と「目も○は○るに」の○印のところである。
前者はⅥの和音でホ長調では副三和音の一つであり、平行短調の主和音である。
この和音はヤダースゾーン1)の言葉で言うと“音の家族”であり、音階固有音の中で組み立てられたものである。後者はⅣの和音の第3音(音階の第6音)を半音低く変化させる和声長音階(Molldur)という使い方である。
この二つの短三和音(暗い気分)によって周囲の長三和音の明るさが燦然と輝き、音楽全体として深みを増す効果が出でくるのである。明るさは暗さがある故に明るいのであり、この二つの短三和音がもし無ければ、薄っぺらな音楽になり下がってしまう事を考えると、実によいところへ この名脇役ともいうべき短三和音を配したものだと感服せざるを得ない。
4. 学院歌の前奏と歌い出し、及び旋律の動き
前奏は多くの歌曲に見られるように、歌の最初四小節をあてている。
前奏というのは単に高さや速さを合図するだけでなく、曲の雰囲気、気分といったものを準備したり知らせる重要な役割をするのである。
ここでは これから歌う空間が浄化され、そうした露払いの後、歌が始まるようになっている。
歌の出発は第四拍目から歌い出されるアウフタクト(Auftact)であり、音は属音から主音へ動き、調の安定の後、旋律運動が展開されるのである。(同じ例「蛍の光」、シューマンの「トロイメライ」)
初めに歌われた主音は、しばらく歌われず、“はゆる信愛”のところで二度目の出現をする。
それだけに大切な位置にある主音であり、“はゆる信愛”が上昇調でクレッシェンドを伴って順次進行で歌い上げられるこの部分は、歌う者もそれを聴く者も胸を熱くする大事なところである。(二度繰り返して歌われるこの部分は、主音で始まりオクターブ上の主音で終わるのであり、曲中最も昂揚するように作曲されている)
5. 詞(詩)と音楽の融合
音楽は幾分抑制された落ち着きと格調の高さで歌詞と一体になり、伴奏和音の響きと各声部の流れが歌詞の意味を解説するかのように拡がり、崇高な雰囲気が空間を満たしていく。
短い深遠な言葉を丁寧にゆったりと表現していき、“はゆる信愛”が頂点になるように綿密な設計がなされている。旋律の運びはほとんどが順次進行であり、跳躍進行も最大幅が5度のため歌い易い。また歌詞中の濁音も一番2音、二番3音と少なく、発音の面からも美しく清楚である。
6. その他
― ①作曲家 市川都志春について
東京音楽学校(現芸大)を卒業した翌年、「日本旋法を基調とした交響曲」で第七回毎日音楽コンクールで第一位となり音楽界へ華々しくデビュー、管弦楽の大曲に加え歌曲も多く創り1940年(昭和15年)の日本歌曲独唱会(関 種子)に二曲が選ばれ、戦時下の音楽放送にも歌曲「闘志」が採り上げられた。
学院歌の発表された1943年(昭和18年)には交響組曲「沃野」の発表や、日本青年館で開催された「加古三枝子 独唱会」にも「馬車」「夏草」の二曲が歌われている。
― ②歌詞の改定と角田チエ子について
学院歌については、かなり前になるが1982年(昭和57年)7月発行の「大阪信愛だより」に“学院歌の歩み”と題した当時の学院長シスター松永キクの記事がある。
次に、改定についてであるが、部分であっても音節数と、すでに書かれている語に合わせる難しさがあり、かなりの制約がある。さらにメロディーも先に固定しているので、それに抑揚が当てはまる語でなければならず、幾重にも至難の条件があった。これらを見事にクリヤーした角田チエ子の非凡な力量に、ただ敬服するばかりである。全文を読んでみると、あたかも初めからそのように書かれたような自然な流れで、音楽にもピタリと一致している。(同じ年、角田は50周年の立派な記念祝歌を書いている)
― ③終わりに
学院歌を作曲した市川都志春は音楽学校在学中プリングスハイムに作曲の指導を受けた。
大阪信愛女学院短大の開学時に音楽理論の教授であった山縣茂太郎もプリングスハイムに師事。そして私も武蔵野音楽大学在学中に和声学、作曲の指導をプリングスハイムから受けた事に何か不思議な縁を感じる。
1)ドイツの音楽理論の学者で、著書「和声学教科書」で勉強した作曲家は多い。
(滝 廉太郎も留学先のライプチヒ音楽院で師事)
1884年(明治17年) 大阪市西区川口町にて教育事業開設
1932年(昭和7年)現在地 城東区古市2丁目に移転
創設者 シスター・マリー・ジュスティヌ(仏人)